訃報の連絡 69年度河村徹様

前会長の69年度河村徹さんが本日お亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈りいたします。

お通夜・告別式は10月24日、25日にしめやかに行われ、クローバー山岳会や生前頑張っておられた合唱団の方など多数が参列されました。有名な女性指揮者松元佐和子氏の供花も有りました。河村さんはクローバー山岳会の会長として運営に頑張られました。同好会時代は岩を得意とされ卒業後はRCCにも参加されました。同好会の先輩であり岩のパートナーでもある66年度の杉山高志さんから追悼文が届きましたのでここに全文掲載したいと思います。

           穂高 屏風岩 河村徹君と共に  

1966年度 杉山 髙志

河村徹君の訃報を聞きました。後輩が先に逝くのは悲しい。

 二人で行った穂高屏風岩を思い出した。50年以上前で 登攀ルートの名は忘れてしまった。 二人とも社会人になっていたのか 金曜の夜汽車に乗り早朝上高地から徳澤へ。 横尾を過ぎ屏風岩に取付くと既に先行のパーティが上にいた。ルートは取付きからのルンゼ落石がヤバいと話していたので 嫌な予感がしたが 落石だらけのルンゼを何とかやり過ごし順調にピッチを進めるころ 耳そばをぴゅうんと空気を引き裂く音がした。落石かと思う間もなく 上からすみませんと声が聞こえた。先行パーティがハーケンかカラビナを落としたらしい。上に気を遣いながら登るので ピッチに時間がかかり最終ピッチは日暮れぎりぎりで その夜は屏風の頭でビバークした。槍が岳を望みながら 登攀技量もよく知った二人で 気持ちのいい登攀だった。

翌朝は涸沢に向かわず 確かパノラマルートと言ったか 屏風の頭からトラバースルートで徳澤に下り 上高地へ急ぎ 帰阪。 月曜の朝は出社した。

「穂高屏風岩に登りました 少し眠いが 勤務に支障はありません」と言うと 創業者ワンマン社長は「日曜休みは月曜からしっかり働くためにあるんや」と

他の社員にも聞こえよがしに宣った。そんな時代だった。

夏の劔合宿で 河村が捻挫か何だったか 真砂沢から劔沢山荘の診療所に連れて行くのに 途中河村を背負った。ずり落とすので 膝でしっかり腰を挟めというと えらい力で締め付けてきた その苦しさを覚えているが そのあとは記憶にないので 大事はなかったのだろう。私が4回生で彼が1回生だったか、、、何度も劔に入っているので どの時か 記憶が定かでない。

河村と谷岡が一緒にアフリカへ行くので 私のテントと他若干の山の道具を貸してくれと言うので貸した。帰国後 河村の言うには ンゴロンゴロ平原かどこかを 車で走っているとき積んだ荷物からテントが落ち それをマサイ族が走ってきて盗った。怖くて取り返せなかったとか何とか不思議なことを言って 結局テントは帰ってこず お土産のマサイ族のナイフが今も私の家にある。

彼が太陽テント工業に勤め 池田ダイハツへ仕事で来た時 何度も我が家に立ち寄るので 何が楽しくて来るんでしょうねと 妻が不思議がった。

親は子を持って 親として成長するように 山でも 後輩と一緒にいることで 先輩は先輩として成長させてもらえる。ついには先輩がとてもできないこと 例えばDCAC会長も務めてくれた。

後輩に慕われた福谷と言い河村と言い もっと私の後輩で居続けてほしかった。 私が今こうしてこの様に「ある」のは 君たちのお陰です。ありがとう

2026年10月23日記

暫く掲載した後はあくびノートに移します。